昭和42年03月17日 朝の御理解
いよいよ、奉祭式を明日に控えまして、形の上において、又、私共の信心内容において、最後の仕上げという感じが致します。仕上げをさせて頂くということは、どこに中心、焦点というものが、置かれなければならんかというと。どこまでも、これから神様の願いが成就する。神様の願いが叶うていく。天地の親神様の働きで、金光大神の御取り次ぎによって、氏子一人一人の上に現れていく、成就していくということ。
そのことが成されていかなければならないための仕上げなのです。それを当然致しますと、私がおかげを頂くためなんです。けども私がおかげを頂くために、私がおかげを頂くために、私が改まる私が仕上げるというのであっては、しかし本当じゃないのです。その思い方が根本的に違うのです、お道の信心からみて。私がおかげを頃かなければならないために、私が最後の仕上げをするというのであったら答えは同じです。
なぜって、天地の親神様は、私共を、「どうぞ、氏子信心して、おかげを受けてくれよ」とおっしゃるのですから。それが神の願いであり、悲願でもあるのですから。その神の悲願が、氏子一人一人の上に、成就していくことのために、これからの、今までだって同じ事ですけれども、とりわけ、金光教合楽教会の御広前において、そのことがなされていくということなんです。
為に、ここに私共が本気で、私共が、成就のおかげを、私共が、おかげを頂くということなんですけれども、そのおかげはです、天地の親神様の願い、天地の親神様のお心というものがです。いわゆる、神の願いが地上になることの為に、私共が、いよいよ、改まらせても頂く、その仕上げだという訳なんです。そのへんが同しことの様で、大変な違い、開きになるのですから。
今日、皆さんが、いよいよ、心しなければいけんのです。今の事が分からないならば、何回でも構いませんから、どうぞ、ここでお伺い下さい。どうぞ、ああなりますように、こうなりますようにと言う。結局、そういう願いが成就する事のためですけれども、それだけが目指しであったら、いわば、お道の信心振りにはならない。神も助かり、氏子も助かり、神も助かっていく。氏子も立ち行く、神も立ち行く。
「あいよかけよで立ち行く」と、こう言うて下さる。そういう願いにもとるのです。本当に、大変なことだと思います。もう形の事一つにおきましても、それこそ、神様をお迎え申し上げるということだけの、準備ということだけに於いても大変なことでございます。けども、準備に大童である。準備に追われておるというだけでは、本当の成就にはなりません。と言うても、根本であるところの、私共の一人一人がです。
内容的に、その奉祭の式をお迎いさせて頂くための心の準備というものが、まず、なされなけぱならない。心の準備というのはです、もう心が、あれもこれもと思うたら、心が乱れて眠られんくらいに、お互いがあろうと思うのでございますけれども。それだけではいけん。それではならん。そこんところに、私共が本気で改まらせて貰い。本気で信心の喜びを頂かせてもらう願いをもって、その喜びをもって。
私共が、様々な持場立場において、万事ばんたんの上に、そろうのないように、御用にお使い回しを頂かねばならんのでございます。それも天地の親神様の願いが成就することのために。私共は、一人一人の上に、神の願いが地上になっていくところの為に。それをもって結論しますと、私共、一人一人が、真実、本当の意味でのおかげを頂くためになるのでございます。
いよいよ、もういよいよ、今日一日で、明日の十二時ごろまでは、お昼下りまでは、おそらく私は、ここで、また奉仕させて頂くことでございましょう。けども、私が、ここを下がらせて頂くと同時に、御結界があちらのお広前に移ることでございましょう。いよいよ、合楽布教の第一歩、第一日が明日でございます。そういう、深い広い神様の願いと、神様の御働きとをです。
十全にならしめるために、神様が言うなら、お働き甲斐、おかげを頂いて頂けれるために、私共が、いよいよ、今日の信心の仕上げをです。出来んなりにも、ここに務めさせて頂いて、日頃、頂いておる御教え、日頃、頂いておる信心。日頃から、ここはと自分で思うておる、自分の心の上にひとつ、広大なおみかげを蒙っていかなければならんと思うのでございます。
どうぞ。